解説要約『ラッセル幸福論』:退屈について

第一部 第四章「退屈と興奮」

超口語要約

 退屈には良い退屈と悪い退屈があるんだ。興奮から離れた単調な生活を送るのは退屈かもしれないけど、そういう環境から偉人や偉業は生まれるんだ。人間だって自然の一部なんだから、自然のリズムで生活するのが一番良いはずだからね。

だけど、現代の人たちは退屈でいることに耐えられなくて、いつも暇つぶしを探しているね。そうやって目先の小さな興奮ばかり追いかけているから、大きな目標に向かうだけのエネルギーがなくなってしまうんだ。結局、かえって無気力になって人生そのものに退屈している人が増えているよ。

退屈でいることは人生に必要なことなんだ。だから、ちゃんと退屈に耐えられるようにならないといけないよ。できれば子供の頃から慣れさせるようにした方がいいね。もし退屈に耐えられないまま大人になれば、その子本来の能力は発揮されないままになってしまうよ。それどころか、お酒に溺れたり、他人を傷つけたりして退屈を紛らわすようになってしまうかもしれないんだ。そうならないためにも、大人たちが退屈であることの大切さを理解して、そういう生活を送るように努める必要があるね。

解説要約

退屈とは何か

人間の行動の一因子としての退屈は、私見によれば、払われてしかるべき注意をほとんど払われていない。
退屈は、有史時代を通じて大きな原動力の一つであったし、とりわけ現代においてそうである、と私は信じている。

 ラッセルによると、退屈は人間的な生活の中にしか観察されず、動物が自然界で生活しているときには見られないという。それでいて、退屈な時間は人間が幸福に生きるために不可欠な要素なのだという。

 まず、ラッセルは人が退屈を感じるための要因を二つ挙げる。一つは、今の自分の状況とより良い状況とを比べてしまうこと、もう一つは自分の能力を充分に発揮できない状況に置かれていることだという。つまり、実りがなく変化のない毎日が続くことから人は退屈を感じるのだ。
そのため、退屈を紛らわすにはどのようなものであろうと変化が起こるだけで十分なのである。良い出来事でなくても、興奮を伴う出来事であれば良いというのだ。

要は、倦怠の犠牲者にとって、きょうと、きのうを区別してくれるような事件であればいいのだ。ひと言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。

退屈への恐れ

私たちは、祖先ほど退屈していない。それでいて、もっと退屈を恐れている。
私たちは、退屈は人間の生まれつきの定めではなく、がむしゃらに興奮を追求することで避けられる、ということを知るようになった。

 狩猟時代の生活では狩りや戦い、動物的な求愛があり、人々は普段の生活の中で興奮への欲望を満たすことができていた。しかし、農業の発達とともに生活は退屈なものになっていったという。
この意見に対して、現代の機械に囲まれて仕事をする生活こそ退屈であるという人もいるが、生活全体を見れば退屈することは非常に少なくなったという。多くの場合、仕事中には同僚や顧客との関わりがあるし、仕事の外にもあらゆる暇つぶしが用意されているからだ。
ラッセルによると、私たちは祖先よりも退屈していないが、退屈であることをより恐れるようになっているのだという。しかし、一生を通して退屈を避け続けることはほとんど不可能であると指摘する。そして、退屈であることに耐えきれずに人類が犯してきた罪は、過度な飲酒、戦争、虐殺、迫害などである。

隣人とのけんかでさえ、何もないよりはましに思えたのだ。それゆえ、退屈は、道徳家にとってきわめて重要な問題である。
というのも、人類の罪の少なくとも半分は、退屈を恐れることに起因しているからだ。

退屈と興奮

あまりにも興奮にみちた生活は、心身を消耗させる生活である。そこでは、快楽の必須の部分と考えられるようになったスリルを得るために、絶えずより強い刺激が必要になる。

 退屈には二つの種類があるという。一つは、人が物事を成し遂げることにつながる退屈で、もう一つは逆に人を無気力にさせる退屈である。前者は、過度な興奮から離れていることから生じ、後者は生き生きとした活動をしないでいることから生じるという。
前者について、興奮は適度であればメリットになるが、過度になれば健康を害することになるという。ラッセルはこれを病的に辛いものを欲しがる人に例えて説明している。刺激物である興奮が過度に与えられることで、味覚が麻痺するのと同じように、物事に対する感覚や感性を鈍くしてしまうのだという。

 たしかに、偉業を成し遂げた人たちの生涯は、外目には興奮満ちたものでないことが多い。彼らのエネルギーは日々自分の仕事に向けられるため、興奮伴う娯楽をするだけの余分なエネルギーはないというのだ。結果的に、偉業を成し遂げる人たちは皆静かな生活を送ることになるのだ。

最もすぐれた小説は、おしなべて退屈なくだりを含んでいる。
最初のページから最後のページまで才気がひらめいているような小説は、まずまちがいなく、偉大な本ではない。

退屈の必要性

子供が最もよく育つのは、若木の場合と同様に、いじりまわされないで同じ土壌の中に置かれているときである。
多すぎる旅行やあまりにも多彩な印象は、幼い者たちにとってよくないし、大きくなるにつれて、実りある単調さに耐えることができなくしてしまう。

 偉人たちの特徴である静かな生活を送るためには、単調な生活に耐える能力を獲得しなければならないという。
ラッセルによれば、ゆったりとした自然界のリズムの中でこそ私たちの力が育まれるのだという。別の言い方をすれば、単調な生活こそが私たち人間に深く根付いたリズムなのだ。それを無視してしまっては、本来の能力は発揮できなくなる。
目先の快楽や興奮を追うことで、彼方にある大きな目標に意識を向けることができなくなってしまうのだ。ラッセルは、こういった人たちが増えていくことで、偉人は生まれず、小人物ばかりの世代になることを危惧する。

 このような理由から、幼少期の内に退屈に耐える能力を伸ばすことは重要であり、親の責任は大きいという。まずは親自身が、子供にとって日々同じような生活が続くことの大切さを理解することが必要だ。

 また、これは大人についても同じく大切な問題だという。ラッセルは、都市部に暮らす現代人が感じる退屈の原因は、彼らの生活が自然界のリズムから切り離されたことにあると指摘する。さらに、裕福な人であっても、目先の快楽を追って実りある退屈を避けることで、もう一方の人を無気力にさせる悪い退屈に陥っていると分析する。

幸福な生活は、おおむね、静かな生活でなければならない。なぜなら、静けさの雰囲気の中でのみ、真の喜びが息づいていられるからである。