解説要約『ラッセル幸福論』:悲観主義者への反論

第一部 第二章「バイロン風の不幸」

超口語要約

 「人生は不幸なものだ」なんて偉そうに言う人がいるけど、大間違いだから信じてはいけないよ。彼らは間違った物の見方をしてしまっていて、それで人生を楽しめないでいるだけなんだ。

 時代は変わっているのだから、私たちもそれに合わせて考え方を変えていかないといけないんだ。そうしないと、今の生活を満喫することはできないし、過去を懐かしんでばかりいるようになってしまうよ。

 それから、孤独でいるのは良くないね。他の人達と関わり合いを持たないで本当に幸せになることはできないんだよ。だから恋愛感情はすごく大切なんだ。好きな人には自然と近づきたくなるからね。

 最後に、頭で考えてばかりいてはダメだよ。まずはなんでもいいから自分でやってみること。そうやって全身全霊で何かに打ち込めば、もう人生が虚しいなんて思わなくなるから。

解説要約

悲観的な気分

しかし、彼らは自分の不幸を誇りとしている。おのれの不幸を宇宙の本質のせいだとし、不幸こそが教養ある人のとるべき唯一の態度であると考えているのだ。

 人生が不幸であると嘆く人の中には、それが人生の本質であると信じている人達がいる。ラッセルはこのような考えを否定する。そこで彼らのような悲観主義者(ペシミスト)の見解に対して反論を試みていく。

 彼らが人生は本質的に不幸であると信じる根拠の一つは、自ら様々な楽しみを味わってみても虚しい気分は晴れなかったことだという。ラッセルはこれに対して、彼らの不幸の原因は別にあり、そのために物事を楽しめないでいるのだという。彼らの人生が悲観すべきものなのではなく、彼らが人生を悲観的に見ているだけであるというのだ。
たとえば悲観主義者は望むものを持っていないことを不幸と嘆くかもしれないが、これから手にしたときの喜びを味わえると考えれば幸福の源と見ることができる。とは言え、気分というのは本人の感じ方の問題であってそれ自体について議論しても本人の気分が晴れるわけではない。そこでラッセルは話を理性的な議論へと進めていく。

もしも、彼が哲学者肌の人であれば、人生は本質的にみじめである、なぜなら、ほしいものは何でも持っている人でも、なお不幸なのだから、と結論する。
彼は、ほしいものをいくつか持っていないことこそ、幸福の不可欠の要素である、ということを忘れているのである。

進歩のないサイクルは不幸か

川はみな海に流れ入るが、海は満ちることがない。

太陽のもと、新しいものは何ひとつない。

昔のことに心を留めるものはない。

太陽のもとでしたこの苦労の結果を、私はいとう。

後を継ぐ者に残すだけなのだから。

「伝道の書」より

 ラッセルは「伝道の書」の一節を分析していく。悲観主義者は、人生は進歩のないサイクルを繰り返しているに過ぎず、ゴールもなく立ち止まることも許されないため苦痛であるという。ラッセルはこれに対して二段階の反論をする。

 まず、進歩がないように感じられるのは単に気分の問題であるという。逆に気分によってはあらゆるものが日々進歩していると感じるかもしれない。
次に、仮に進歩がなく同じサイクルを繰り返しているのだとしても、それだけでは人生に価値がないとは言えないはずだという。ラッセルはこれを旅行に例えて説明している。夏に避暑地へ出かけるとして、結局自宅に帰って来るということだけでそのサイクルに価値がないとは言えないだろう。もしも道中が楽しいものであるのならば、最終的に元の場所に戻ってきたとしても悲観すべきことは何もないはずだ。このように見方を変えることができれば、悲観主義者の気分も晴れるかもしれない。

人生は、ヒーローとヒロインが、信じがたいような不運を乗り越えたのちにハッピーエンドで報われる、といったメロドラマの類推で考えられるべきではない。
私が生きて、私なりに楽しみ、私の息子があとを継いで、彼なりに楽しみ、今度は、彼の息子が後を継ぐ。こういう事実のどこに、悲劇をかこつべき要素があるだろうか。

新しいものを受け入れる勇気

今日、私たちは、いささか混乱した時代を通り抜けつつある。多くの人は、古い基準を投げ捨ててしまっているが、新しい基準はまだ手に入れていない。このために、さまざまな困難に陥るのである。
そして、彼らの無意識は、通例まだ古い基準を信じているので、困難にぶつかると、絶望と後悔と冷笑的な態度を生み出す。

 次にジョーゼフ・ウッド・クルーチの『現代人気質』についての考察に移る。クルーチは現代を「不幸な時代」と評するが、ラッセルは彼の主張は感傷的なものに過ぎないという。

 ラッセルによると、現代では神への強固な信仰心は失われ、それに取って代わる心の拠り所も存在していないのだという。そしてクルーチはその信仰心の喪失こそが不幸の原因であるというが、ラッセルはそれを否定する。
これを13世紀のヨーロッパを例に挙げて説明する。この時代の人々はみな強い信仰心を持っていたが、それにも関わらず幸福な時代ではなかったというのだ。当時の代表的な哲学者であるロジャー・ベーコンによると、むしろ絶望的な時代であったようである。

 ラッセルは、悲観主義者が現代人の不幸を嘆く原因をこのように分析する。人々は表面的には古い道徳観や価値観を捨てているが、一方でそれにとって代わる新しい基準は手に入れていないのだという。そのため、精神は不安定な状況に置かれており、解決すべき問題に直面すると無意識に古い道徳観や価値観を持ち出してしまうことになる。そして、もはや時代に適合しなくなった古い基準で新しい物事を捉えようとするために、現代は不幸な時代であると絶望してしまうのだ。そうならないためには、古い道徳観や価値観を全て捨て去り、現代に適合する新たな基準を受け入れる勇気を持つことだという。

これを救済する道は、現代を嘆き、過去をなつかしむことにあるのではなく、もっと勇気をもって現代的なものの見方を受け入れ、名目上は捨て去ったはずのもろもろの迷信を、その薄暗いすべての隠れ場所から引き出して根だやしにしようと決意することにある。

人は一人では幸福になれない

恋愛は、協力を生み出す情感の、第一のそして最も一般的な形であって、いやしくも深く愛した人なら、自分の最高の幸福が愛する人の幸福とは無縁であるとするような哲学には満足しないだろう。

 現代の人々は恋愛を重要なものであると感じている。人生における恋愛の重要性をラッセルはこのように説明する。

 ひとつは、それ自体が人生の喜びであるということ。次に、恋愛には人生のあらゆる喜びをさらに高める効果を持っていること。山頂から見る日の出など素晴らしい景色も、愛する人と一緒に見ることでその喜びは比べられないほど大きくなる。
最後は、恋愛を通じて人は自我の殻を破ることができるのだという。ラッセルは、人は孤独の中で本当に幸せになることはできないと信じており、幸福になるためには他者との協力関係が不可欠であるという。その協力関係を築くためには他者との間に友情や愛情が必要になる。そして、人は恋愛という感情によって、そのきっかけとなる他者とつながりを持とうとするのだ。

社会とのつながり

悲劇を書くためには、人は悲劇を感じなければならない。悲劇を感じるためには、人は自分が生きている世界を、頭ばかりではなく血と肉をもって知っていなければならない。

 現代になり特定の個人を神格化して崇拝する時代は終わった。クルーチはそのような世界を悲観的に捉え絶望する。ラッセルは、現代では人々の関心の対象は神格化された一部の個人に対してではなく、より大きな社会というグループに向けられているのだという。現代社会が殺伐としていると嘆く人々は、その新しい環境に馴染んでいないことが原因であるというのだ。そのために、自分が生きている現代社会に対して興味を抱けないでいるのだという。

 現代社会に対して悲観的な見方をする文学者のグループの人々は、実際に外の社会と密に接触を持っていないことが多い。頭であれこれ考えただけでは、そのものを本当に知ることはできない。ラッセルは、社会から離れた場所で人生への不満を募らせるのではなく、なんであれコミュニティに飛び込み自分の身体で社会を感じることが必要なのだと提案する。
そうすれば、自分が生きている社会に対して本当の興味が湧き、良いことも悪いことも含めてそれらを楽しむことができるようになるはずだというのだ。

世界には自分のすることなどない何もない、という思いをいだいてぶらぶらしているあらゆる才能ある若者たちに、私は言いたい。

「ものを書こうとするのをやめて、それよりも、書かないように努めてみたまえ。世の中へ出ていき、海賊なり、ボルネオの王様なり、ソビエト・ロシアの労働者なりになってみることだ。基本的な身体の要求を満足させることで君のエネルギーの全部が費やされるといった、そういう生活に飛びこんでみることだ。」

その3へ続く